今年というか、これからやりたいこと
2018年の目標を考えていたのだけれど、宣言的に書くのもなんかしっくりこないので、のんびり書いてみたいと思います。
移住してからやりたいことは変わらないのだけれど、言葉にするならば、それは「編集」と「コミュニティ」に関することだと最近やっと分かってきました。
編集に関して言えば、今あるモノ、コトを別の視点から捉え直してみるということ。
森のようちえんや最近始めた野山のがっこうに関しても、広義の「編集」だと考えていて、地域の環境を捉え直して、地方だからこそできる子育てを実践していきたいと考えています。
「田舎には何もない」と言われたりもするけれど、視点の角度の違いだけで何かは見つかると思うから。
地域おこしや移住者を呼び込むために、新しいモノやコトをつくり出す動きもあるけれど、地域の文脈をないがしろにしてしまうと、誰の想い入れもない、はりぼてみたいなモノが出来上がってしまいかねません。
ここにも、当事者を最大化するような編集が求められると考えています。
また、移住者が特別な人として取り上げられがちなことに対しても、ちょっとむずむずしています。
そして、特別な人たちばかりが取り上げられがちなことに、さらにむずむず・・・・。
確かに取材を受ける人たちは、何かしら事業をやっている人が多く、輝いているように見えます。
一方で、何か目立つことをやっていない人でも、特別で輝いている部分ってあると考えていて、それを拾っていきたいし、拾える視点こそ身に付けていきたいと思うのです。
私自身も、地方に暮らす普通の人の普通の暮らしにとても興味があります。ヒーローよりも、隣の家の晩ごはんが気になるのです。
自分がやりたいことは編集なんだ!と気づけたのは、昨年末に読んだ2つの記事が大きく影響していると考えています。
来年、力を入れたいことが書いてあった!ほんとに大切なことだと思う。→「町の中では当たり前で地味に見えることでも、ちゃんと拾い上げて形にしていくことが必要だと感じます。」 https://t.co/uNpytzDSsh @bambambampさんから
— 加藤千晴(ノヤマカンパニー) (@Mt8chiharu) 2017年12月27日
「人のハレをつくれる仕事」ってすごくいい表現だなと思った。ハレとケの日があるんじゃなくて、日常の中にハレとケがある。新鮮な視点をもらったことに感謝。 https://t.co/r7OX9S8LRF
— 加藤千晴(ノヤマカンパニー) (@Mt8chiharu) 2017年12月18日
「当たり前で地味に見えることでも、ちゃんと拾い上げて形にしていくこと」
「日常に対する視点を変えることによって、ハレの部分を見つけ、形にして見せること」
そんなことを意識して活動していきたいなと。
漬け物を漬けるのが得意なおばちゃんを取材して、漬け物の流儀を聞くとか。
山菜やキノコ採集の得意な人を取材して、「きのこや山菜がワシをよんどるんよ」的な話を聞けたら最高だ(よんでるかは分からないけど・・・)。
コミュニティに関しては、森のようちえんや野山のがっこうに共感してくれる人とのゆるやかなつながりを大切にしたいと考えています。
以前にも書いたように、枠ではなくて、核を大切にしていきたい。
コミュニティについて考える時に大切なこと - かとう家の小ばなし
居場所づくりと言ってもいいのかもしれません。学校でも、会社でもなく、なんか楽しそうなモノ・コトで、気楽に出会えたらうれしいなと。
そんな感じで、地に足つけてがんばっていきたいと思います~。
当たり前や常識は人がつくったもの|「社会心理学講義」を読んで
「意志って本当にあるの?」
そう聞かれると驚く人も多いと思います。
だって私たちは、意志が自分たちの行動を決め、社会を変えていくと信じているから。少なくとも私はそう思っていました。
一方、著者は「意志」は社会のしくみの中で生まれてきたものだと説いています。
「意志」の正体って何?
どういうことか、ベンジャミンさんが行った実験を元に説明します。
彼は下記の3つを調べました。
- 運動の指令が脳に発生する瞬間
- 手首が動く瞬間
- 意志が生まれる瞬間
私たちの常識では、下記の順番で考えるでしょう。
- 手首を挙げようという意志が起こる
- 手首を動かすための脳内信号が関係器官に送られる
- 実際に手首が動く
ところが実験では、不思議な結果になります。
- 手首の運動を起こす指令が脳波に生じる
- 手首を動かそうという意志が生じる
- 実際に手首が動く
つまり、意志が生じる前に、すでに行為の指令が脳から出ているということなんです。
意志が行為の出発点ではない。
寒い布団の中から出たくない、でも出ないと・・・と考えている場合も、「えいやっ!」という意志をもって、布団から出るんじゃない。
「布団から出よう」という意志をもつ(意識する)前に、布団から出るために体を動かせ!という指令が出ていることになります。
行為が実際に遂行されるほんの少し前に行為決定の意志が意識されるので、意志が行為に先立つという感覚のごまかしに我々は気づきません。(※太字は個人的なもの)
じゃあ、意志って何なの?ってなりますよね。
意志とは、ある身体運動を出来事ではなく、行為だとする判断そのものです。人間存在のあり方を理解する形式が意志と呼ばれるのです。人間は自由な存在だという社会規範がそこに表記されている。意志や主体はモノではなく、コトすなわち社会現象として理解しなければなりません。
(※太字は個人的なもの)
ちょっと難しいですね。。
分かりやすくいうと、私たちは社会を運営していく上で、ある行為に対する責任者を見つけなければなりません。そこに「自由」や「意志」の根っこがある。
つまり人が責任を引き受けるという理解のもとで社会が成り立っているので、そこに「意志」の存在が必要とされるのです。(事件や裁判を思い浮かべてみると分かりやすいかもしれません。)
もし、私たちが責任を追求しなくなれば、「自由」や「意志」は不可解な概念になるかもしれない、と中島義道(哲学者)は指摘し、著者は、意志は虚構であると説いています。
私たちは人間がつくった社会に生きている
ちょっと小難しくなってしまいましたが、私たちは人間がつくった社会に生きているという気づきが、本を読み終えての大きな学びでした。
社会を成立させるために、「意志」が存在する。
そして人間がつくった社会だからこそ、「正解」や「こたえ」は無い。
だから考え続けなければならない、そんなことを教えてくれる本です。
その他にも、
「多様性を認めることと、犯罪が起こることは同列で、システムの中に組み込まれている」
「異質性よりも同質性の方が差別の原因になりやすい」
など、人間と人間がつくった社会に対する深い考察が繰り広げられています。
書き上げるまでに10年以上要された大作を全部理解できたとは言えないけれど、思考のタネをたくさんもらえました。
下記の本も読んでみたいと思います!
習慣がつくる暮らし
すっかり冷え込んできて、外遊びをする時にもちょっと身構えてしまう日が増えました。
が・・・、私は森のようちえんの主催者なので、毎週火曜と金曜は必ず外遊びをしています。
寒いのに外遊びをするのって大変だね!と思われるかもしれませんが、正直なところ、子どもを連れて今日は何をしよう、外へ行こうか行くまいか、児童館に行こうかなど、あれこれ考える方が、私にとっては大変で。
この日は外で遊ぶ!と決めて、後はそのルールに従うだけ、という方がずいぶんとラクなんです。
何かを決めたり、決めるために考えたりすることは、エネルギーを必要とします。
今日の晩御飯すら考えるのがおっくうな日もありますよね・・・。
だからこそ、夜寝る前の歯磨きのように、自分が必要だと感じていることを無意識にできる、習慣レベルにまで落とし込めているとラクなんです。
暮らしと習慣
こうして考えてみると、私たちの暮らしは習慣のかたまりなんだなあと実感します。
先日、テレビで稲刈りの様子が映った時に、「あっ、これ、この前〇〇ちゃんとやったね~。」と、娘が話していました。
あー、こうやって経験が積み重なっていくのか。
子供たちは日々何を思って過ごしているのだろう、と観察していますが、ああ伝わってるんだ、分かってるんだと感じることが、ふとした瞬間にあらわれます。
ちょうど4年前に見た、映画「よみがえりのレシピ」に出てくるおばあさんの言葉も印象的でした。(大量生産・流通システムには不向きで、途絶えかけていた庄内の在来作物を受け継いでいく人たちの物語。)
「種を選別する作業を手伝ってくれる(2歳位の)孫が、道端に落ちていた種を見つけて、ばあばの「宝物」が落ちてたよーと拾ってきてくれたんですよ。」
大人の背中をちゃんと見てるんですよね。
習慣をつくるフィルター
何が習慣になって、習慣にならないかは人それぞれで、そこに個性があらわれる。
その人のフィルターを通り抜けたものだけが、習慣になっていくような気がしています。
私にできることは、親のフィルターを通したものを子どもに与えるのではなくて、子どもが自分自身のフィルターをつくれるように、サポートをしてあげること。
さくちゃんの言葉が、とてもしっくりきています。
こどもが大人になるまでに親ができることは、自立するときに「これは母の価値観だ」とわかるように、わかりやすくタグ付けしてあげることかなと思う。
わたしは、「○○しなさい」「○○はやめなさい」と言わずに「わたしは○○だと思う」と言うように気をつけてきた。「これはわたし個人の意見です」とタグ付けをしていた。
なので、小学生の時から娘はわたしと意見がちがうときに「あー、ママちん(わたしのこと)ならそうかもねー」「ママちんはそう言うと思った」などと言う。
引用元:「卒母」するために必要なことを考えた。|桜林 直子(サクちゃん)|note
「その考えもいいね、おもしろいね。でも、私はこう思うんよ。」
そんな会話ができる日を楽しみに過ごしていきたいと思います。
和紙の一輪挿しつくりを体験してきました!
先週末、和紙の一輪挿しをつくるワークショップに参加してきました!
和紙を漉ける機会はなかなかないし、母が一輪挿しを探していたこともあり、気になっていたんです。
主催は、りくうさん。
一輪挿しのタイプは2種類あります。
1つは幾何学模様。
もう1つは繭みたいな形のデザインです。
両方とも、3Dプリンターでつくられているそう。
好きな形を選び、早速漉いていきます。
まずは、楮(こうぞ)の入った水にくぐらせる作業。
少しずつ、楮が型にのっていきます。
ある程度のったら、ドライヤーで乾かします。
そして、再び漉いていきます。
この後は、ひたすら漉く→乾かすの繰り返し。
途中、楮を足してもらいました。
だいぶできてきた〜。
「全部和紙でふさいでしまうと、中に入れる試験管が光を反射してきらきらする部分が見えなくなるんですよ。」
とアドバイスをもらったので、ちょうどいいあんばいで作業を終えました。
こちらの繭タイプも体験させて頂いたのですが、幾何学タイプよりも難しかったです・・・。
基本的に、縦か斜めの構造で横の線がないので、楮がひかかりにくいのかもしれません。きれいに漉けるプロはすごいなぁ。
一輪挿しが完成した後は、希望によって色をつけることもできました。
好みの糸を選んで、一輪挿しの隙間くくりつけて、
完成ー!
おいしいケーキとコーヒーも頂いて、充実した時間でした〜。
やっぱり何かをつくる体験は楽しい。
1つは母にプレゼントして、もう1つはわが家に。
どこに飾ろうかなあ。
りくうさんの作品は24日(日)まで、池田屋さんで展示中とのこと。
素敵な作品が実際に見れるので、ぜひ足を運ばれてみてくださーい!
森のようちえんの写真展をしています、とその裏話
「ここで、写真の展示とかできたらいいよねー。」
「いいね~。」
と話していたのが、数ヶ月前。
やっと形になり、西予市市役所1階のロビーで写真展を開催中です(12〜26日まで)。
市役所を訪れるたびに、子ども達の絵画や作品などが展示されているのを見ていて、私たちもこの場所を活用させてもらえたらいいなあと考えていました。
私たち夫婦は「営業」があまり得意ではありません。
ダンナとよく話しているのですが、いつも近くの道の駅で海産物を売ってるおじさんの
「良かったら食べてみてや〜、それで良かったら買ってね。」
といったスタンスです。
それは、頭を下げるのが嫌という意味ではなくて、同じパワーを使うなら、活動をより良くすることに使いたいと考えているから。そうすることが自分たちにとっても、関わってくれる人にとってもプラスになると思っています。
持続可能なかたちで続けて行きたいからこそ。
まさに、以前書いた「枠」じゃなくて「核」を大事にした活動をしていきたい。
コミュニティについて考える時に大切なこと - かとう家の小ばなし
今回の写真展はそんな自分たちが考えたマイルドな営業作戦?と言えるかもしれません。
ただ1つ伝えたいのは、純粋に参加者を増やしたいという想いではなくて、あくまでもこんな「子どもとの関わり方」、「市内での過ごし方」、「自然とのつき合い方」、「生き方」もあるよ!といったことを伝えるのが大きなねらいです。
そして、応援してくれる人が増えたらいいなあと。
無駄な経験なんてない、活かせるかどうか
ということをダンナとわいわい話しながら夜な夜な作業をしていたのですが、盛り上がったのは、20代でいろんなことしてきたけど、それが今全部つながってるよねーということ。
前職は同じ財団で研究員として働いていたのですが、人前で話したり、コンクールの運営をしたり、イベントを運営したり。
「どんな仕事をしてるの?」と聞かれても、いつも答えにつまり、やっと出てきた答えは「自然を守る目的につながること全部」と、さらに謎が深まりそうな回答でした。
それなりにハードな職場だったけれど、徹底的に自分たちでやる、やる方法を考えるということが身についたおかげで、たいていのことは調べればできると思える姿勢を身につけられたことは、今とても役立っています。
目的をもってできることを増やしていくことも大切だけど、将来の役に立つかどうかで経験を判断していくと、できることの可能性を小さくすることもあるなあと改めて思いました。
評価される側に立ち続けること
最後に1つ。森のようちえんもそうですが、何かをはじめたり、実行するということは評価されることと表裏一体です。
正直怖いと感じることもあります。
私たちの場合は、自分たちで事業を行っているので、会社や誰かが守ってくれる訳でもありません。
だとしても、やりたいことがあるから、安全なところから誰かや何かを評価し続けるのではなく、常に実行者として評価される側に立ち続けたいなあと思うのでした。
評価される側に、立ち続けるということ。|最所あさみ|note
自分のフィルターを育てる
ぐっと冷え込んできました。
先日は、森のようちえんであられが降る日に外へ出かけて、とっても寒かった。
おかげで、真冬に9時間以上猛禽調査をしていた前職での日々を思い出しました。
仕事とはいえ、出現するかどうか分からない鳥を極寒の中待ち続けるのは、なかなか大変で何度も心が折れそうになったものです。
自然観察に出かけるとき、その対象が生きものである場合は特に、お目当てのものに必ず出合えるとは限りません。季節やそれまでの天候・気温からある程度予測して出かけても、難しかったりします。
見れる時もあれば、見れない時もある。
見れたらラッキーだし、見れなかったらまた来る時の楽しみが増える。
そんなスタンスの人が多いので、私は自然を好きな人のことが大好きです。
こうしたスタンスでいることって、最近ますます重要になってきているなと思うようになりました。
というのは、失敗したくない、そのために早く正解を知りたいという人が多いと感じるからです。
近道なんてない
失敗しないようにとか、自分にとって損か得かで物ごとを判断することは、自分の視野を狭くする危険を孕んでいます。
例えば、「いい出会い」を求めている人がいるとします。
はじめて行ったイベントで、いきなり、結婚したい!、ビジネスを一緒にやりたい!と思えるような、めっちゃ気が合う人に会えたりするでしょうか。
おそらく難しいと思います。
むしろ、つき合ったけどうまくいかなかった、仕事のパートナーとけんか別れしてしまったという、一見ネガティブに見えることからの方が学ぶことは多い。
そういった機会は、「自分がどんな人と一緒に居たいのか、仕事をしたいのか」という、自分を深く知るきっかけをくれるからです。
インターネットによって、誰かの正解を探すことはできるようになったけれど、自分にあてはめた場合、それが正解になるとは限りません。
だからこそ、「自分には合わなかった出来事」から自身を見つめ、自分だけの答えを見つけていくことが大切なんだと思います。
自分のフィルターをつくる
自然の中で過ごすことは、たくさんの発見や学びがあります。
寒い日もあるし、暑い日もある。
風が強い日も、日の光が温かい日もあります。見える景色、出合えるいきものも季節によって違います。
経験を選ぶというよりは、ただそこに身を置き、自分のフィルターをつくっているような感覚です。
日常の中で感じたこと、考えたことが沈殿して「じぶん」がつくられる。
だから今日はめっちゃ寒かった!、何にも生きもの見れなかった~!、でも弁当はおいしかったなという何でもない1日も、特別な日と同じくらい大切にしたいなと。
たった数年しか年月を重ねていないのに、子どもたちのフィルターにはすでにいろんな個性が表れています。
そんな様子を観察するのも、すごく楽しい。
これからますます冷え込むけれど、楽しみながら外に出かけていきたいと思います。
理想と現実がかけ離れているとき、どう生きていくか|映画「人生フルーツ」を見てきた
先週末、ずっと見たかった映画「人生フルーツ」を見てきました。
私がこの映画を見たかった理由は2つ。
1つは、ジブリの鈴木さんのポッドキャストや、隠居系男子の鳥井さんのブログを読んで面白そうだと思ったから。
鈴木敏夫のジブリ汗まみれ - TOKYO FM 80.0 - 鈴木敏夫
そしてもう1つは、とても個人的な理由。
作品解説から少し引用します。
かつて日本住宅公団のエースだった修一さんは、阿佐ヶ谷住宅や多摩平団地などの都市計画に携わってきました。1960年代、風の通り道となる雑木林を残し、自然との共生を目指したニュータウンを計画。けれど、経済優先の時代はそれを許さず、完成したのは理想とはほど遠い無機質な大規模団地。修一さんは、それまでの仕事から距離を置き、自ら手がけたニュータウンに土地を買い、家を建て、雑木林を育てはじめましたーー。あれから50年、ふたりはコツコツ、ゆっくりと時をためてきました。そして、90歳になった修一さんに新たな仕事の依頼がやってきます。
私たち夫婦は以前、自然環境を守る活動を主体とした公益財団法人に勤務していました。
働く中で、作品解説にある様な開発に反対したり、開発する場合でもできる限り自然に対するインパクトを少なくすることを提案したりしていたのですが、経済優先の社会の中で、「自然を守る」という目的の達成がいかに難しいかということを日々痛切に感じていました。
社会をこうしたい!って考えた時に、戦い方は2つあると思います。
1つは組織に所属して社会を変えていくこと。
こちらの場合、規模もあることでそれなりの力が発揮できると思います。
そして仲間もいる。一方で、組織と考えが合わなくなったり、組織の中で異なる意見に出合ったりした時には、調整することにエネルギーを注がなくてはなりません。
もう1つは、例え時間がかかってもこっちの方が楽しくない?という小さな現実をコツコツとつくっていくこと。
主人公の修一さんと英子さん夫婦は後者の道を選びました。
私たち夫婦も、こちらの道なき道を歩いている途中(勝手にそう思ってるw)なので、お2人はどのように道を歩み、時を積み重ねてきたのかを知りたかったのです。
感想:自分でやってみることの大切さ
ていねいな暮らしとは何か?
相手を説得すること。
社会を説得すること。
などなど、いろんな考えが頭を巡ってまだ整理できていないのですが、一番心に残っているのは、「自分でやってみることの大切さ」です。
私たちは高度に分業化された社会に生きていて、都市部に向かえば向かうほどその傾向は顕著です。(田舎には、1人何役もこなすスーパーマンや何でもつくれるおっちゃんやおばちゃんがあっちにもこっちにもいるけど・・・)
医療でも行政でも学問でも、分業すれば深く専門的な仕事ができます(縦割りとも言う)。
その一方で、全体が見えなくなっちゃてるのが「今」なんじゃないかと思うのです。
それは自分でできること、やってみたことの範囲が少ないからではないでしょうか?
.自分でやってみると何が大変かが分かり、全体も見えてくる。
全体を考えた上で、目の前の仕事と向き合えれば成果も変わってくる。
そして何よりも、他者の仕事に敬意を払えると思うのです。
野菜を育てたり、DIYで何かをつくってみたり、介護を手伝ってみたりすることでもいい。
修一さんや英子さんのように、「自分でやってみるという生き方」を選んでみてもいい。
お金を払ったら他の人にやってもらえることが多い時代だからこそ、あえて自分でやってみることって大切だなあと。
そこから、自分に合った仕事や生き方が見えてくるのかもしれません。
おすすめの映画です。
【感想余談①】
それにしても、映画に出てくるごはんがどれも美味しそうで、長生きしてたくさんおいしいものを食べたい!と心底思いました~。
【感想余談②】
中国語のタイトルは、「積存時間的生活」。なかなか直球で、おもしろいなあ。
お母さんになる人生とならない人生、何が違うんでしょうか?
「お母さんになる人生とならない人生、何が違うんでしょうか?」
ドラマ、コウノドリに出てくる助産師の小松さんが、子どもをもつ同僚に尋ねていた。
放送を見てからずっとその答えを考えていて、女性であることに変わりないし、違いはないのかもしれないとも思ったりした。
そして辿り着いた1番の違いは、ある一定期間において、自分ではない個人の人生について、決断をし、その責任を引き受けなければならないことだと思う。
子どもの主体性を育てたいと思い、森のようちえんの活動をしていると、「えらいね。」と言われることがある。
でもそんなことはなくて、主体的な姿勢を身につけ、自立への階段を登ってくことは、親にもメリットがあるのだ。
あなたは私の子どもで、私はあなたの母親ではあるのだけれど、大前提として、それぞれ個人としての私がある。
だからこそ、さくちゃんさんが下記の記事で書いているように、お互いがいつまでも自由でいられるといいなと考えている。
子どもがいるいないは、あくまで違いであって、そこに優劣はない。
私は私で縁あって、子どもを授かり母親になったことも楽しみながら生きていきたいと思います。
さくちゃんさんのセブンルール、おもしろかったのでおすすめです~。
〈 #桜林直子 の #セブンルール 〉
— 7RULES (セブンルール) (@7rules_ktv) 2017年11月28日
1.「美味しい」だけでなく「モテる」クッキーを作る
2.スタッフに夢組と叶え組を組み合わせる
3.娘のお弁当を作り続けるためにSNSにアップする
4.考えるために歩く
5.不機嫌禁止
6.娘に母のせいとは言わせない
7.人の半分の時間で倍稼ぐ#7RULES pic.twitter.com/5LUWk0aCm5
〈 見逃し無料配信中 〉 #クッキー屋さん #桜林直子 の「#7RULES ( #セブンルール ) 」12/5 までカンテレドーガにて配信中!▷https://t.co/vHEqeTxTLa @sac_ring #火曜よる11時 pic.twitter.com/IkPuXuJ1fw
— 7RULES (セブンルール) (@7rules_ktv) 2017年12月1日
本当に悪い人っていないのかもしれない|「漫画 君たちはどう生きるか」を読んで
周回遅れ感がありますが、話題になっている漫画 君たちはどう生きるかを読みました。
以前、原著を図書館で借りて読んだのですが、自身の状況が変わるとまた新たな発見がありますね。
物語は、主人公の中学生コペル君と編集者であるおじさんのやりとりを中心に展開されるのですが、今回は下記の部分が特に印象に残りました。
ー君も大人になってゆくと、よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生かしきれないでる、小さな善人がどんなに多いかということを、おいおいに知って来るだろう。
世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。
本当に悪い人っていないのかもしれない
コペル君は仲間が上級生にいじめられている状況を黙って見ていることしかできず、「いじめられた時には必ず助ける」という仲間と交わした大切な約束を、守ることができませんでした。
つまり、逃げてしまったんです。
これは、善悪で考えると悪いことだと思うのですが、「弱さ」として捉えるとまた印象が違うなと。
漫画では、逃げたことをひたすら後悔するコペル君が描かれていたのですが、いち読者の私としては、「悪い」というよりは「弱さ」感じました。
一方で、裏切られた当事者である仲間も、はじめはおそらくコペル君を「悪いやつ」だと思ったでしょう。
それでも、最終的にコペル君を許したのは、彼の「弱さ」を受け入れ、強くなりたいという願う彼の姿勢に心を動かされたからじゃないかと。
自分が任期のうちは、面倒なことは起こしたくない事なかれ主義。
自分が任期のうちに、何らかの実績を残したくて必要のないものを作ってしまうこと。
なかなか自分で自分を認められず、承認欲求を外に求め続けること。
悪口や嫌みを言ってしまうこと。
そういったことをしてしまうのは、その人の中の「悪」が表面化したというよりも、「弱さ」ではないか。
そして、大変な経験をした人に強くて優しい人が多いのは、自らの経験をもとに人の弱さを理解できるからだろう。
大変な経験を「強さ」に昇華できるかどうかも、きっと紙一重。
「私が大変な想いをしたのだから、他の人もその道を辿るべき。」
そんな悪魔のささやきを振り切るために学び続けるた結果、身に付くものを教養とよぶのだろう。
教養を身につけるっていうのは、何かに詳しいとかはなくて、強くしなやかに生きていくことなのかもしれない。
今まで感じてきた「悪」って、弱さなのかもしれないと考えると、相手の見方も変わるなあという、新たな発見でした。
刈り取る人と育てる人
先日、四国女子会というイベントに招かれてお話をしてきました。
会への参加をきっかけに、女性であることについて改めて考えていたのですが、私が大好きで尊敬する友人には、共通の傾向があるなあと気づきました。
愛が溢れている
まず、これ。普通、愛を注げる対象と言えば、家族を思い浮かべると思います。
しかし、彼女たちの愛の対象は家族にはとどまらず、例えば子どもについて語るときは、自身の子どもだけでなく地域の子どもたちが含まれ、お年寄りについても同じ。
主語が「私」ではなくて、「私たち」という感覚で物事を捉えている、と表現してもいいかもしれません。(私たちの子ども、私たちの地域といったように・・・)
おそらく、当事者として受け止められる守備範囲が大きいのだと思います。
育てることを楽しんでいる
そして、彼女たちはコツコツと育てています。
ちまたにはコスパがいい〇〇とか、
〇〇を実現するためにやるたった7つのこと、
など何かを達成するための効率のいい方法についての情報が溢れています。
それでも、彼女たちはそういった情報には振り回されません。
目の前のことに真摯に向き合いながら、ブレずにコツコツと何かを育てています。
その対象が子どもだったり、事業だったりします。
ここまで書いておいてあれですが、この2つを満たしているのは女性に限らないな・・・。
まとめますと、私はこの2つの要素を持っている人たちが大好きで、とても尊敬しているのです。
本音もすぐにばれる
ここからが本題なのですが、少し前に下記のツイートを読んで、心底共感しました。
「刈り取り思考」か「育てる思考」が。地域の面白いものを発掘してブランディングしたいとか、起業家やクリエイターがコラボできるインキュベーション施設をつくりたいとか色んなとこで話を聞きます。意義はわかるけどプロセスに違和感があることがよくあります。実は本当に何かを育てる気がない。
— 小倉ヒラク (@o_hiraku) 2017年11月9日
日々暮らしを重ねていると、愛を注がれてできたものと、そうでないものに出合います。
そして、SNSが生活に浸透し、発信しているモノ・コトを本当に好きなのか?ということがバレやすい時代になりました。
そのモノ・コトに対して真摯に向き合っているのか?という姿勢が、無意識のうちに伝わってしまうのです。
大好きだからこそ、そのモノ・コトについて、語ることができる言葉をたくさんもっているし、ネタもつきません。中にはえっ!そこまで?というくらい、マニアックな情報もあったりします。
だからこそ、あぁ、この人は本当に好きなんだなあという姿勢が伝わる。
そして、「好き」という気持ちがあるからこそ、コツコツと育てることができる。
バズや炎上を狙って、承認欲求やマーケティングの目的を満たすための近道を選ぶのではなく、ひたすら丁寧に水や栄養を与えながら、育てる過程をも楽しむことができるんです。
「実は本当に何かを育てる気がない」というのは、今後ますます伝わりやすい世の中になっていくと思います。
だからこそ、自分たちの好きなことやいいと思うことを大切にして、丁寧に伝えながら、コツコツと育てていきたいと思います。