かとう家の小ばなし

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本当に悪い人っていないのかもしれない|「漫画 君たちはどう生きるか」を読んで

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周回遅れ感がありますが、話題になっている漫画 君たちはどう生きるかを読みました。

以前、原著を図書館で借りて読んだのですが、自身の状況が変わるとまた新たな発見がありますね。

 

物語は、主人公の中学生コペル君と編集者であるおじさんのやりとりを中心に展開されるのですが、今回は下記の部分が特に印象に残りました。

ー君も大人になってゆくと、よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生かしきれないでる、小さな善人がどんなに多いかということを、おいおいに知って来るだろう。

世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。

 

本当に悪い人っていないのかもしれない

コペル君は仲間が上級生にいじめられている状況を黙って見ていることしかできず、「いじめられた時には必ず助ける」という仲間と交わした大切な約束を、守ることができませんでした。

つまり、逃げてしまったんです。

 

これは、善悪で考えると悪いことだと思うのですが、「弱さ」として捉えるとまた印象が違うなと。

漫画では、逃げたことをひたすら後悔するコペル君が描かれていたのですが、いち読者の私としては、「悪い」というよりは「弱さ」感じました。

一方で、裏切られた当事者である仲間も、はじめはおそらくコペル君を「悪いやつ」だと思ったでしょう。

 

それでも、最終的にコペル君を許したのは、彼の「弱さ」を受け入れ、強くなりたいという願う彼の姿勢に心を動かされたからじゃないかと。

 

自分が任期のうちは、面倒なことは起こしたくない事なかれ主義。

自分が任期のうちに、何らかの実績を残したくて必要のないものを作ってしまうこと。

なかなか自分で自分を認められず、承認欲求を外に求め続けること。

悪口や嫌みを言ってしまうこと。

 

そういったことをしてしまうのは、その人の中の「悪」が表面化したというよりも、「弱さ」ではないか。

 

そして、大変な経験をした人に強くて優しい人が多いのは、自らの経験をもとに人の弱さを理解できるからだろう。

大変な経験を「強さ」に昇華できるかどうかも、きっと紙一重。

「私が大変な想いをしたのだから、他の人もその道を辿るべき。」

そんな悪魔のささやきを振り切るために学び続けるた結果、身に付くものを教養とよぶのだろう。

 

教養を身につけるっていうのは、何かに詳しいとかはなくて、強くしなやかに生きていくことなのかもしれない。

 

今まで感じてきた「悪」って、弱さなのかもしれないと考えると、相手の見方も変わるなあという、新たな発見でした。

 

 

刈り取る人と育てる人

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先日、四国女子会というイベントに招かれてお話をしてきました。

 

会への参加をきっかけに、女性であることについて改めて考えていたのですが、私が大好きで尊敬する友人には、共通の傾向があるなあと気づきました。

 

愛が溢れている

まず、これ。普通、愛を注げる対象と言えば、家族を思い浮かべると思います。

しかし、彼女たちの愛の対象は家族にはとどまらず、例えば子どもについて語るときは、自身の子どもだけでなく地域の子どもたちが含まれ、お年寄りについても同じ。

 

主語が「私」ではなくて、「私たち」という感覚で物事を捉えている、と表現してもいいかもしれません。(私たちの子ども、私たちの地域といったように・・・)

 

おそらく、当事者として受け止められる守備範囲が大きいのだと思います。

 

育てることを楽しんでいる

そして、彼女たちはコツコツと育てています。

ちまたにはコスパがいい〇〇とか、

〇〇を実現するためにやるたった7つのこと、

など何かを達成するための効率のいい方法についての情報が溢れています。

 

それでも、彼女たちはそういった情報には振り回されません。

目の前のことに真摯に向き合いながら、ブレずにコツコツと何かを育てています。

その対象が子どもだったり、事業だったりします。

ここまで書いておいてあれですが、この2つを満たしているのは女性に限らないな・・・。

 

まとめますと、私はこの2つの要素を持っている人たちが大好きで、とても尊敬しているのです。

 

本音もすぐにばれる

ここからが本題なのですが、少し前に下記のツイートを読んで、心底共感しました。

 

 

日々暮らしを重ねていると、愛を注がれてできたものと、そうでないものに出合います。

そして、SNSが生活に浸透し、発信しているモノ・コトを本当に好きなのか?ということがバレやすい時代になりました。

そのモノ・コトに対して真摯に向き合っているのか?という姿勢が、無意識のうちに伝わってしまうのです。

 

大好きだからこそ、そのモノ・コトについて、語ることができる言葉をたくさんもっているし、ネタもつきません。中にはえっ!そこまで?というくらい、マニアックな情報もあったりします。

だからこそ、あぁ、この人は本当に好きなんだなあという姿勢が伝わる。

 

そして、「好き」という気持ちがあるからこそ、コツコツと育てることができる。

バズや炎上を狙って、承認欲求やマーケティングの目的を満たすための近道を選ぶのではなく、ひたすら丁寧に水や栄養を与えながら、育てる過程をも楽しむことができるんです。

 

実は本当に何かを育てる気がない」というのは、今後ますます伝わりやすい世の中になっていくと思います。 

 

だからこそ、自分たちの好きなことやいいと思うことを大切にして、丁寧に伝えながら、コツコツと育てていきたいと思います。

 

 

 

コミュニティについて考える時に大切なこと

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思い立って「コミュニティ」について学んでいます。

ここ数年というか、移住してからますます「場所」「居場所」づくりへの興味関心が高くなってきたからです。

 

私はどんな場所がつくりたいのか?

地域にあったらいいなーと思う場所ってどんなものだろう?

そんなことを考えています。 

 

先日、「コミュニティ」について学ぶ中で、めちゃめちゃ腑に落ちた考え方に出会いました。

 

枠ではなく核で考える

一般的に 「コミュニティ」について考える時、枠があって、その枠の中に人が入っていくイメージを想像するのではないでしょうか?

 

でも、実際のコミュニティの形は違うんです。

真ん中に核があってその周りに人が集まってくるもの。

コミュニティマネージャーの最所さんは、そう表現されていました。

たき火の周りに人が集まっている様子を思い浮かべると、より理解しやすいかもしれません。

 

最所さん作の図を元に表すとこんな感じ。

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この考えを聞いて、私は感動するレベルで合点がいきました。

もやもや考えていたことが言語化されていて、これからつくっていきたい場も、今運営している森のようちえんもまさに、核の考えを大切にしたいんだと気付くことができたからです。

 

もう少し詳しく説明します。

コミュニティを枠で捉えると、入るか入らないかという二択になります。

一方、核で捉えると、関与度は核からの距離で考えることができます。

 

つまり、関与度が高い人とは核のすぐ近くにいる人のこと。

核のすぐ近くにいる人から、少し距離を置いている人まで、コミュニティへの関与度をグラデーションで表すことができるんです。

 

もう1つ。

枠で捉えると、どうしても枠の中にいる人を囲ってしまいたくなります。

しかし、そうやって枠の維持に固執すると、どうやったら逃げられないか?という発想に至り、そもそものコミュニティの目的からそれた、本末転倒な方向へ転じてしまう可能性が高い。

 

一方で、核で考えることは「距離をとること」を認めます。

そもそも囲む枠もない。だからこそ、一番大切な核をより良くする活動に注力し続けられるのです。

 

この「距離をとること」を認めるってけっこうハードルが高いことだと考えています。

「距離をとる」ことが「活動に対する否定的な態度」と混同されがちだからです。

 でも、人の興味関心の移り変わりや熱量を縛ることって難しい。自分自身のことだってそうです。

 

また、距離をとることを認めない閉鎖的なコミュニティでは良い空気感を醸成するのは難しく、最終的には運営し続けることも難しくなる可能性も少なくはありません。

 

改めて、今運営している森のようちえんも、囲むという「枠」の視点ではなく、どうやったらよりよい活動を展開できるのか、という「核」の視点で考えて運営していきたい、と強く思いました。

 

移住と関係人口

この「枠」と「核」の考え方については、移住関係人口についてもあてはまると考えています。

最近、地方創生の分野で語られることの多くなった「関係人口」という言葉ですが、文字どおり、ある地域に関係する人口を指します。ざっくり言っちゃうと、その地域の「ファン」です。

 

枠で囲もうとすると、移住してもらおう、なんとかこの場所に住み続けてもらおうという考えになりますが、核で捉えると、どうやってファンになってもらおう?というところからスタートします。

 

ファンの中には月1でその地域へ通う人もいれば、年に1回は行きたいなあという人もいるでしょう。

 

そういったファンに「結婚しよう!」といきなり迫るよりも、「おいしいお酒があるんよ。」、「今は、アジが旬なんよ。」、「この新しい品種のみかん、ぜひ食べてほしいんやけど。」と、じっくり関係性を構築していった方が成就の可能性も高まりやすい。

 

一部の熱狂的なファンが移住してくれるかもしれないし、年に1回しか来ていなかった人が月に1度来てくれるようになるかもしれません。

 

移住によって人口という分かりやすい数字が増えるのは、税収の面からも共助の面からもプラスかもしれません。

同様に、「顔を見たくなったから、今月も来ちゃいました!」と、定期的に新しい風を吹き込み、地域のものを消費し、宣伝してくれるファンが多いことも同じような効果があるのではないでしょうか。

 

「枠」よりも、「核」で考える。

 

核という炎を燃やし続けられるように、いいことも悪いことも上質な燃料にして、精進したいと思います!

世の中はそう簡単には変えられないから

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若い頃に学んで良かったと思うことの1つに、「世の中はそう簡単には変わらない」という考えがある。

ありがたいことに、新卒入社した財団法人でこの考えを学ぶことができた。

その財団は、「正しいことを正攻法で実現していくこと」をモットーにしていたので(少なくとも私はそう感じていた)、目の前に立ちはだかる壁は相応に高く厚かった。

 

時代劇に出てくる悪役が実社会ではあまり登場しないように、世の中に分かりやすく悪い人なんていないんだと思う。

 

1つ言えるのは、社会人として目の前の矛盾に目をつぶっていると、それが積み重なった結果の、どう考えても本末転倒だし、理解できないことに出合ってしまう。こういうことを「タチガワルイ」と表現するのかもしれない。

実際、仕事として向き合わねばならないことは、「タチガワルイ」ことも多かった。

 

話を元に戻す。

「世の中はそう簡単には変わらない」と学んだからこそ、ショッキングなことが起きてもあまり落ちこまなくなった。

落ち込まないヨ!とは言えないけれど、落ち込みから回復するスピードは圧倒的に早くなった。

 

大好きな友達が移住してしまったり、これまで参加してきた数十回の選挙で自分が票を投じた人はなぜか当選しないとか、落ち込むことはそれなりの頻度と勢いをもってやってくるけれど。

 

子どもが生まれてからは、ショッキングなことと幸せなことが秒刻みでやってくるので、今何をしようとしていたのか?すら思い出せなくなることも頻繁にある。

そのため、落ち込むことも激減した。

 

老いでしょうか・・・。

 

もう1つ。

「世の中はそう簡単には変わらない」と学んだからこそ、コツコツと目の前のことにていねいに取り組み、積み上げていきたいと思うようになった。

もちろん、すぐに変わることもある。

実際、「保育園落ちた、日本死ね」というブログは国会でも取り上げられ、保育士の給与アップのきっかになった。

ただしこのやり方では、社会の「しくみ」を変えることは難しい。

もちろん、声を挙げていくことは必要なのだけれど、本当に大切なのは声を挙げ続けていくことだからだ。

 

だからこそ、コツコツとじわじわとやっていく姿勢を大切にしたい。

 

そんな想いを小倉ヒラクさんが言語化してくれていた。

 

 

 「世の中はそう簡単には変わらない」

だからこそ今日も前向きに生きられるし、毎日を楽しみたいと思う。

そして自分ができることを、コツコツやっていきたいと思うのでした。

道具よりもいれものを

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森のようちえんの目的の1つに、「子どもの自主性を尊重し、見守ること」、というものがあります。

最近ますますこの「自主性」、「見守ること」が大切だなあと感じているので、思考の整理もかねてまとめてみたいと思います。

 

人間にしかできないことって何? 

先日目にしたこちらのツイートから、これからはますます「問い」が大切になるんだなとぼんやり考えていました。

 

また先月末には、みずほ銀行がAIによって業務を効率化し、1万9千人分の業務量削減を目指すことが報じられ、話題になっていました。

機械でもできる仕事はAI化されていく未来が、想定より早いスピードでやってきているような気がする・・・・という肌感覚です。

みずほFG、1万9千人削減へ ロボットやAI活用 約800カ所店舗統廃合 - 産経ニュース

 

こうした波は、いずれ地方へもやってくる。

 

AIについては、「人間の仕事が奪われる」というネガティブな側面で語られることも多いのですが、原則、人にとって役立つものだと考えています。

長時間労働が無くなったり、廃炉ビジネスで大きな役割を果たしたり、病気の特定にかかる時間を短縮したりとか。

人工知能 病名突き止め患者の命救う 国内初か | NHK「かぶん」ブログ:NHK

 

じゃあ、人間にできることって何か?と考えると、やっぱり問いをつくることだと思うんです。

本当に解くべき問いをつくって、社会をより良くしていくこと。

問いをつくった後の、課題のたて方や解決方法は、AIと並走できる。

でも、解くべき問いをつくることはまだまだ人の得意分野だと考えています。

 

自分自身の「なぜ?」を大切にしてほしい

一方で、私たちが社会に出るまでに、「自分だけの問いをつくり、それを解く機会」って十分に与えられているでしょうか?

 

実はそんなに多くないと思うんです。

自ら立てた「問い」を最後までやり抜く過程まで含めると、ますます機会は少ない。

 

だからこそ、スキルを詰め込むのではなく、スキルを入れるいれもの育てたい。

こちらから与えるのではなく、「なぜ?」、「なんで?」と考える機会を大切に、生きていくための根っこを育てたいと考えています。

 

今の学校教育では基本的に、課題や問いを解くためのスキル(道具)の習得に比重がおかれています。

でも、社会に出て生きていくことって、自分だけの問いをつくり(=就職)、それを解いていくことなんですよね。適切な問いがあって、はじめてスキルが活きてくる。

 

洗濯ものが増えたり、自分の用事が片付かなかったり、仕事の途中で手をとめなきゃならないことも多いけれど、できる範囲で見守っていきたいと思います。

山口県にある周防大島のジャム屋さん、瀬戸内ジャムズガーデンに行ってきた!

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先日、実家の山口に帰省した際、ずーっと行ってみたかった周防大島の「瀬戸内ジャムズガーデン」へ行ってきました!

里山資本主義でも紹介されたお店で、島へUターンされたご夫婦が季節のフルーツを使って、素材の味を活かしたジャムをつくられています。

 

ジャムはホテルや高速のパーキングでも手に入るのですが、種類数が限られているので、お店に行くのを心待ちにしていました。

 

実家のある萩からは、車で2時間。

松山と山口の柳井を結ぶ防予汽船の港からは、車で約30分くらい。

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日曜日ということもあってか、お店の前の駐車場はいっぱい。たくさんのお客さんがジャムを求めて、来店されていました。

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早速、ジャム屋さんの中へ。たくさんの種類のジャムが並んでいます。

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柑橘だけでも、軽く10種類は超えるんじゃないでしょうか。

その他、桃、ブルーベリーやトマトなど、季節の果物や野菜を使ったジャムが並んでいます。

 

数種類のジャムは、実際に味見してみることができました。

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バニラビーンズを使ったジャムと、紅茶風味のジャムが好みでした。

 

こちらの桃シリーズはめっちゃおいしかった!

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ショコラなど、チョコと一緒に煮込んだジャムもあって、リッチな味わい。ホワイトチョコと煮込んだジャムがとっても好みでした。

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ギフト用の小瓶に詰められたジャムも、カラフルで素敵。

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ジャム屋さんの隣にはブルーベリー園があって、ブルーベリー狩りを楽しんでいるお客さんもいました。

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さらに、ジャムを使ったスイーツが味わえるカフェもあります。

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テラス席もすごーく、居心地が良さそうでした。ここなら子連れでものんびりできそう。

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写真を撮り忘れたのですが、ジャム屋さんの前は砂浜で、海水浴を楽しんでいる親子を見かけました。透明度が高く、とってもきれいな海です。

次回はのんびり過ごしたいと思います~。

 

瀬戸内ジャムズガーデン
  • 営業時間:9:00~18:00
  • 定休日:水曜日
  • TEL:0820-73-0002

本当は、学校で教えてほしかったこと

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先日、マンガ家のおかざき真理さんのインタビューを読みました。

 

 

核心をついたやりとりに考えさせられることが多かったので、書きとめておきたいと思います。

 

やりたいことは「職業」として用意されてない

「大きくなったら、何になりたいの?」

私たちは子どもの頃から、将来なりたいものについて聞かれ続けてきました。

いつ聞かれたか?にもよるけれど、知っている職業や身の回りの人の職業を思い浮かべて、回答することが多いのではないでしょうか。

 

また時代の変化を受けて、ケーキ屋さんがパティシエになったり、花屋さんがフラワーデザイナーになったりしているかもしれないけれど、そのほとんどは、今ある「職業」から選ばれた回答だと思います。

 

そんな子供時代を経て、大人になって思うことは、今でさえ何になったらいいのか分からないということ。

娘に「お母さんって、何しよるん?」と聞かれても、うーん、「いろいろやね。」としか答えることができません。

だって、目指していることに到達するためには、いろいろやってみる必要があるから。今だって、webサイトをつくったり、ネット関連のサポートをしたり、森のようちえんの活動をやっている。

 

コンビニアイス研究家とかみたいに、いいネーミングを思いつくことができればいいのかもしれないけれど、どうやら私にそんな才はない・・・。

 

だから、おかざきさんの以下のお話に激しく頷いてしまいました。

 

自分の本当にやりたいことって仕事の形をしてないじゃないですか。職業としてお金をくれるわけではないことのほうが多い。だったら、色んな所からちょっとずつお金をもらって、総合的に自分のやりたいことのようなものが叶っていけば良いんじゃないかなと思うんです。

 

素人とプロの差ってなんだろうって思った時に、お金を儲けるシステムを自分の中に構築するのがプロだと思うんです。ずっと好きで長く続けたいのであれば、お金に変える、というか、生活に組み込むシステムを作っておいたほうが楽だよと思います。システム化できるまでが難しいとは思うのですが。

 

本当は学校で教えてほしかったこと

自分の本当にやりたいことって職業として存在していないこともあるよって、誰かに教えてほしかった。

大学受験の時も、今ある職業から逆算し、学部を決めて受験した。

あのとき、やりたいことは探し続けていけばいいし、今ある職業じゃなくても、努力すれば職業って作ることができるんだよ、と誰かに教えて欲しかった。

 

人には多面性があるように、これからは1人の人の仕事も多面的になり、1つの職業ではくくることができなくなっていくのかもしれません。

そして今ある職業が、子どもたちが大人になった時にも必ずあるとは限らない。

 

だからこそ、「20年後も必要とされる職業」という視点で将来を考えるのではなく、どう生きたいか?を自分にも問いながら、子育てしていきたいなあと思うのでした。

 

※参考

何になりたいかではなく、どう生きたいか? - かとう家の小ばなし

 

おばあさんが芝刈りに行っても、いいんじゃないか。

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最近、桃太郎の話が大好きな娘。

家では、「こんにちは!おじいさんです。」というモノマネをするのがマイブームなようです。

 

そこで、「おばあさんはどこに行ったん?」と聞くと、「せんたく」と答えました。

なるほど、話をわかってるんだなあと納得してたんですが、ふと、これって小さい頃からジェンダーロール(性別によって社会から期待されたり、自ら表現する役割や行動様式)を無意識に刷り込んでるんじゃないかと感じてしまいました。

 

いろんな役割分担があっていい

たぶん「桃太郎」の場合、おじいさんとおばあさんは、たまたま今日だけ「芝刈り」や「洗濯」に行ったわけではなく、おそらくそのように役割分担をしていた可能性が高いですよね。

 

でもこれからの時代を考えると、おばあさんが芝刈りへ行き、おじいさんが洗濯へ行ってもいいし、それぞれの予定を考えながらローテンションやシフトを組んだりしてもいいと思うんですよ。

 

それぞれが芝刈りも洗濯も両方できる方がいい。 

 

あ〜、今日はおばあさんの当番やったから、おばあさんが洗濯に行ったんやねー。

 

そんな解釈もスタンダードになるとおもしろいなあ、と密かに考えています。

 

こうじゃなきゃいけない、というものはない

もう一つ。これまでって、大きいものが「善」とされる風潮が強かったと思うんですよ。

大企業に入社すれば安泰とか、起業して上場して、会社を大きくしていくことがすごい!とか。(実際、本当にすごいと思う。)

 

じゃあ、大きくしなきゃだめなのかというと、必ずしもそんなことはない。

 

他にも、雇用を生み出している友人たちの活動をみると、その決断と覚悟に、いつもすごいなあと感じてしまったりする。

退路を断っての決断なんて私にはできないし、いつもけもの道くらいの逃げ道はこっそり用意しておきたい。

あぁ、私には覚悟が足りないなあ、こんなんでいいのかなあと思うときがあります。

 

でも、会社を大きくしなきゃだめとか、雇用しなきゃだめとか、退路断たないとだめなことなんか一切ないんですよね。ネットや雑誌からは、そんなすごい人たちの情報がざざーとやってくるから、知らないうちに、そうするのがすごくて”善”なんじゃないかと思ってしまっていました。

でも人それぞれで、まずは小さく始めて、そのまま小さい規模でもいい。自分のしっくりくるやり方でいい。

 

基本的には、なんでこれってこうなってんだっけ?、本当にそう?と、世の中の出来事をいちいち考えながら生きているんだけど、知らないうちに「こうするのが正しい」みたいな流れに飲み込まれていることもあるなあと振り返りました。

 

まずは家族が健やかに暮らしていけることが大切。

そこから活動を続けていける方法を考えよう。

 

と、子どもとのやりとりから、いつもいろんな気づきをもらっています。

 

やりたいことが変わるのは、悪いことなのだろうか?

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社会人になってから、2度転職し、生きものなどの調査研究を行う研究職からwebやPRの仕事へとがらりと職種を変えました。

 

研究員として8年くらいもやもや葛藤しながら仕事を続け、できたこと、できなかったこと、このままではできそうにないことなどに向き合い、別の方向に舵を切りました。

 

その大きな理由は、この方向からでは自分が登りたい山には登ることができそうにないと感じたからです。

1つの山を登るのにもいくつかルートがあるように、目標にたどり着くためにもいくつかのルートがあります。

 

ただ、実社会で登る山は、ゴールまで道が続いているとは限らないし、そもそものルートすら開拓する必要があることも稀ではありません。そして、時には自分だけの山(課題など)を見つけることも必要になってきます。

 

やりたいことが変わるのは悪いことなのか?

「石の上にも3年」ということわざがあるように、一般的には、やりたいことがあれこれ変わるのはあまりよろしくない、とされる風潮があります。でも、やりたいことが変わるのは本当に悪いことなのでしょうか?

 

個人的には、悪いことだとは考えていません。

なぜなら、本気でやりたいことに、取り組んでいると目標にたどり着くために、いろいろやってみる必要があるからです。むしろ、可能性のあることは片っ端から取り組んでみる必要性すらある。

ビジネスの世界では、PDCA(Plan:計画→Do:実行→Check:評価→Act:改善)を高速で回していかなければなりません。

 

変わっている部分は何か?

何より大切なのは、目的や目標が変わっているのか?手段や方法が変わっているのかを意識することだと思います。

目的や目標がころころ変わっていると、いつまでたっても目的や目標を達成できない。

でも、手段や方法は、目的や目標を達成するためにころころ変えていく段階があります。

私自身、行かないつもりだった大学院に進学したり、就職したら3年で地元に戻ると言ってたのに戻らなかったりしました。その都度、親に申し訳なく感じていたのですが、今ならあの時の想いをていねいに伝えられるなあと振り返っています。

 

これから子育てという長い道のりを歩んでいきますが、「やりたい!」と表面化することだけでなく、気持ちの根っこを観察しながら応援していきたいと思います。

これからは、楽しく身銭を切っていくことが大切だと思う

f:id:chibo1217:20171004165622j:plain衆院選が行われることになり、幼児教育の無償化が注目されていますが、みなさんどんな考えをお持ちでしょうか?

 

私は、何かを学ぶときには基本的に、お金を払うべきだという意見をもっています。

( 幼児教育の無償化については、こちらに完全同意。幼児教育「無償化」よりも必要なもの(駒崎弘樹) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

その理由は、身銭をきらないと自分ごとにならないからです。

 

例えば、会費が5,000円の勉強会とただの勉強会があったら、どちらの方が集中して学ぼうとするでしょうか?そして、どちらの方がより本気の人が集まるでしょうか?

おそらく5,000円の勉強会だと思います。

自分で身銭を切って、自分ごとにならないと、次につなげようという強いインセンティブが働きにくい。

 

また、自分たちのお金で運営することは、主催者側にとってもメリットがあります。参加費を設定して、参加者集めに奔走しなければなりませんが、その動きこそが地域づくりにもつながるからです。

※参考: 講師には、10万円くらい謝礼を払おうよ : 井上貴至の「地域づくりは楽しい」

 

自身の経験を振り返ってみても、以前、kindleUnlimitedという月額980円で読み放題というAmazonのサービスに入っていましたが、辞めました。登録された雑誌と書籍が読み放題だったのですが、特に書籍に関しては、無料だからいつか読めばいいやと思ったり、この本から何かを学びとろうという集中力が落ちてしまったからです。

 

自分にとっては、本当に読みたい書籍はお金を払って買おう。

そう思って退会し、雑誌は流し読みでもいいから別の読み放題サービス(楽天マガジン)に切り替えました。

 

また、最近オンラインの勉強会に参加しているのですが、受講費用も安くはないため、かなり本気度の高い人が集まっていて、熱量がすごいです。

 

タダで何かの機会を提供すると、「お金を払ってでも学びたい人」と「タダだから来ました」という人が一緒に学ぶことになる。どちらがより良い機会を提供できるかは明らかでしょう。 

 

補助金からスタートする事業が、当事者を育てにくい構造とも、似ているのかもしれません。 

 

もちろん、教育格差を解消し、誰でも望む教育を受けられる機会の均等化は必要です。そのための手段が無償化することだけではないはず。無償化にすることでサービス利用希望者が急増し、本当に必要な人にサービスを届けられなくなったら本末転倒です。

奨学金の無利子化や、ある程度の条件をクリアすれば返済免除など、身銭を切ることをサポートする方法も、もっと検討するべきだと思うんです。

 

おわりに

というわけで、なんでもタダがいいわけではないヨ!ってことが言いたかったんです。

そしてお金が価値の交換を目的に存在しているならば、本当にタダのものって無くて、どこかのだれかがお金を出しているわけです。(無料の講座には補助金や税金が使われているように。)

 

サービスを受ける側としても、提供する側としても本来の目標や目的を考えて、「身銭を切る」とい感覚を忘れずに取り組んでいきたいと改めて思いました。

 

そして何より、お金を払ってでも参加したいと思ってもらう価値をつくり続けていくのって、本当に難しいなあ(泣)とこれからのことに想いを馳せる今日この頃です。

でも、地方で自分たちの仕事をつくって生きていくためには、向き合っていかねばならないテーマだなと。

 

がんばりまーす。