かとう家の小ばなし

愛媛県西予市に移住し、地域おこし協力隊として働く旦那とその家族の日常を、嫁ときどき旦那の目線で綴ります。

「あなた」が「私」になるとき|晴れたら空に骨まいて(著者:川内有緒)

 

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昨年末に36歳になりました。

36とは自分にとってはなかなか感慨深い年で、地元・山口で過ごした年月が私の人生の半分にも満たなくなろうとしています。

 

また、少し前に2人目の子どもを出産しました。

そのため、母に愛媛まで来てもらい、日々の家事や2歳の娘の育児を手伝ってもらっていたのだけれど、私は今後そう長くはないであろう両親との時間をどう過ごせば、これまでの恩を返していけるのかと考えさせられてしまいました。

 

何が言いたいかというと、

・家族が一緒にいられる時間は、実はそんなに多くはないかもしれないこと

・いずれ訪れる身近な人の死を受け入れて生きていくために、今後何を大切に生きていったらいいのか

 

そんなことを考えたのでした。

 

と、前置きが長くなってしまったけれど、最近川内有緒さんの本を読みました。

 

この本には、親しい家族や友人を失い、見送った五組の人々が登場します。

その共通点は、「散骨」という見送り方を選んでいること。

 

この本を手にとったきっかけは、以前から大好きな著者の最新作だということに加えてもう1つ。

同じ著者の「パリの国連で夢を食う」という本の中に、お父さんが亡くなった時のことが書かれていて、かなり大きな喪失感と向き合うことになった著者が今、「身近な人の死」にどのように向き合っているのかが知りたかったのです。

 

パリ、ロタ島、チェコ、ヒマラヤ、インド。 

登場する人々は、逝き方も、散骨された場所も異なります。

一般的に、「死」をテーマにしたお話は重くなりがち。

けれど、家族もしくは家族みたいな人との別れは悲しい物語として心に残らず、むしろ、圧倒的な「生」を感じました。

 

まさに著者と同じことを追体験をした感じ。

決して悲しいだけの話ではなかった。むしろ幸せな話をたくさん聞いた。手を打って笑い転げたのは、1回や2回ではない。時として、人生とは、想像がつかないほど愉快だったりマヌケだったりして、悲劇とコメディーは常に紙一重なのだと思う。

 

私たちは、たとえダントツに辛い出来事が起こったとしても、そこに「あの人」だけがいないという、なんら変わらないような日常を生きていかなければなりません。

 

今ここにいないという事実と、確かに存在していたという事実は変わらないし、変えられない。

それでも心ゆくまで悼んだら、いつか死者の存在が自分と重なり、思い出しては落ち込むのではなく、自然に受け入れて生きていける日がくるということ。

そして、そんな日にたどり着くまでの道のりにも幸せは転がっている。

改めて、人が人に影響されて生きていくことの豊かさを感じました。

よく、悲しみを乗り越えるという表現があるが、悲しみは無理に乗り越えなくてもいいのだと思えた。繰り返し思い出すことで、自分の内部にその人は取り込まれ、いつしか自分に重なっていく。

 

そんな風に過ごせるのなら、いつか来てしまう日までは目の前のことを精一杯やって生きよう、そう思えたのでした。

 

普段、あまり本を読み返したりはしないけど、この本はそばにおいて何度でも読み返したいです。