「一汁一菜でよいという提案」を読んで考えたこと
ヨメです。
少し前にほぼ日で連載されていた、料理家の土井善晴さんと糸井さんの対談がとてもおもしろかったんです。
家庭料理からはじまって、日々の生きる姿勢のようなものにまでお話が膨らんで。
あまりにおもしろかったので、対談の中で触れられていた本を購入してしまいました。
私と同じようにこの本を読みたい!っていう人がたくさんいたようで、amazonや他のネット書店でもしばらく売り切れだったのですが、やっと手に入れることができました。
今日は、本の中で特に印象に残ったことをまとめておきたいと思います。
ハレとケの区別が曖昧になっていた
日本には「ハレ」と「ケ」の概念がありますが、日常の家庭料理は「ケ」の料理にあたります。
そう言われてみればそうなのですが、私はすっかり忘れていました。
これまで、毎日、夕飯は何にしよう?メインは・・・と、気負って考えていたんです。(たいそうなものは、つくれないのに!)
今日はからあげで、明日はシチューで、その次は・・・と。
でも、そんなに気負う必要は全然無かったんですよね。
一汁一菜は、現代に生きる私たちにも応用できる、最適な食事です。おかずをわざわざ考えなくても、ご飯と味噌汁を作り、味噌汁を具だくさんにすればそれはじゅうぶんにおかずを兼ねるものとなります。
一汁一菜だからといって、ご馳走を食べないと決めるわけではありません。いろいろな日があるわけで、それでよいのです。お肉料理もサラダも食べたい。休みの日にはゆっくりして、遅い朝食、早い夕食でご馳走を作って楽しんで下さい。一汁一菜というスタイルを基本にくらしの秩序ができてくれば、おのずから様々な楽しみが生まれるものです。
(※太字は私によるもの)
大切なのは、わが家の食のスタイル(基本)をもつこと。
なんで、これまで毎日が「ハレ」みたいなメニューを検討していたんだろう。
一汁一菜を基本に、もう1品つくれるかどうかで、みそ汁の具の中身を調整してみるという考え方もあったんだ!と知ることができてかなり楽になりました。
主菜と副菜の考え方にとらわれすぎないこと
主菜と副菜の考え方も、1960年頃、世界共通の科学として確立されつつあった栄養学が日本に入ってきたことから始まっているそうです。
栄養価値を文化より優先しておかずを分類することで、栄養学的にはわかりやすいのですが、人間は栄養を食べてきたのではありません。
この指摘で、少し前の出来事を思い出しました。
母子手帳をもらいに市役所へ行った時のこと。保健士さんから、妊娠中期からは副菜の数を増やすように指導されました。
正直、お話を聞いて、普段の食事よりめちゃハードル高いやん!と感じてしまいました。すでに子どもがいてさらに働いていたりすると、一品増やすのも大変。
そんな時は一汁一菜を基本に、一汁の中にいろんな具を入れて、汁の味付けは薄めることで(塩分過多を避けるため)、日々の食事を組み立てていけたらいいんじゃないかなと思いました。
「食事」を通して伝えられること
「食事」は食べることだけではありません。
誰かが買い物をし、下ごしらえをし、調理してくれて、やっとごはんを食べることができます。そしてその後には片付けが待っている。
毎日の営みである「食事」には、人間の根源的な生きる力を養う働きがある
んです。
便利な時代になった今、私たちはできあがった料理を手軽に買うことができ、「料理する」ことを省略できるようになりました。
一方で、そういった「料理する」部分を省略してしまうと、食べるために必然であった行動(働き)を、捨てることになります。「行動(働き)」と「食べる」の連動性がなくなれば、生きるための学習機能を失うことになり、行動して食べることが心を育てると考えれば、大いに心の発達やバランスを崩すことになってしまいます。
料理をするという行為は、具材を切る音、調理する過程でたち上るにおいなど、その過程でいろんなものを伝えているんですよね。
パソコンで調べれば基本的なことが分かる時代になって、実際の経験・体験がますます重視されるようになってきました。
そんな中で、食事を通して伝えられることってますます大切になってくるのかもしれません。
おわりに
私がこの本でいちばん好きなのは「一汁一菜でよいという提案」というタイトルです。
「一汁一菜という提案」じゃなくて、「でよい」って言ってくれているところが好き。
子どもの好き嫌いがあったり、仕事で忙しい時は、無理せずできあいのものに頼ってもいい。
「一汁一菜」という考えを基本に、わが家のスタイルをもって日々のごはんを楽しめるといいなぁと思いました。
紙のご飯の色、文字の菜の色、帯の味噌の色。本の装丁もとても素敵なので気になる方はぜひ!