地域おこし協力隊の折り返し地点が見えてきて、今、考えていること
(photo by Miyuki Shimizu)
ダンナです。(すんごく久しぶりの投稿になってしまいました)
地域おこし協力隊として活動をはじめて、まもなく1年半が経とうとしています。
協力隊の任期は1年、最長3年まで更新が可能です。(一般的に)
ということで、3年間めいっぱい協力隊として活動するという前提に立つと、まもなく折り返し地点を迎えるわけです。そんな自分が今、考えていることを書いておきたいと思います。
そもそもなぜUターンしたのか
このブログでも何度か書いていますが、我が家は結婚当初、埼玉県で暮らしていました。ただし、入籍するときに既に「35歳までには愛媛(ダンナの地元)か山口(ヨメの地元)の方に帰ろう」という話になっていました。
なんでそういう話になったかというと、簡単に言うとヨメさんが「地元の方に帰りたい人」だったからです。
ヨメさんは実家で両親と過ごす時間をとても大事にする人で、2人姉妹の長女ということもあってか「いずれは地元の近くに帰りたい」と結婚前からよく言っていました。
一方、自分はなんとなく10年くらいのスパンで人生を考えていたので、「とりあえず10年間は埼玉で働かせて」という話をしました。
その後、移住候補地を求めて中四国を回った結果、素敵な人たちとの出会いもあって愛媛の西予市がいいんじゃないか、ということになりました。(嫁さんは山口出身ですが、大学時代4年間は愛媛に住んでいたので、愛媛在住の友達も多く、山口でなく愛媛に移り住むことには抵抗はなかったようです)
そんなこんなで、Uターンをまじめに考えるようになりました。
今から3年前のことです。
帰ることは決めた。で、仕事はどうしよう?
いざUターンをしようとなった時、課題はやっぱり仕事。
「移住するにしても仕事はどうする?」多くの人が直面する課題だと思います。
西予への移住へ思いをはせ、仕事をどうするか考えたとき、自分の頭の中に浮かんだのは「今の生活をしながら愛媛で就活ができるのだろうか?」ということでした。
埼玉にいた当時、自分はかなり長時間労働者でした。
昼は野外へ調査に出かけて、夜は残業して事務作業、土日はイベント運営など、とにかく多くの時間を仕事に費やしていました。家で夕食をとらない日も多かったです。「こんな素敵なヨメさんがいるのに、あんたの人生損しとるで!(笑)」とヨメさんからよく言われました。
そういう働き方をしながら、自分に合うと感じる職場を愛媛で探し、就職活動の時間を確保して正社員として就職する、ということは、当時の自分にとってすごく困難なことに思えました。
とりあえず今の仕事を辞めてから次を考えよう、そんな風に考えていたときに、西予市の地域おこし協力隊の募集を見つけました。
地域おこし協力隊に応募した当時のこと
移住を意識し始めた頃、都内で開かれる移住とか地方での暮らしをテーマにしたイベント(いわゆる"地域系イベント")によく参加していました。四国出身者が集うイベントなどもあり、そこでは同じようにUターンを考えている人たちと出会い、交流を深めました。
そうしたイベントで地域おこし協力隊の人たちにも何人か出会っていたし、愛媛県が主催する地域おこし協力隊の募集説明会などにも参加していたので、協力隊制度の概要については知っていました。
前述のように「きちんと就活をして、就職先を見つけてからの移住は難しい」と考えていた自分にとって、地域おこし協力隊という任期付きの職というのはとても魅力的に映りました。
ひとまず収入と住居は確保されるので、愛媛で暮らしながら仕事を探す足がかりができるからです。
ただ、西予市で地域おこし協力隊の募集が出たのは5月。
その年の9月採用という枠でした。
年度単位で仕事が回っていた前職時代、年度途中での退職というのは考えておらず、年度はじめに「今年度いっぱいで」と上司に退職の意向を伝えたばかりでした。そんなところに9月採用の募集…。
しかもちょうどそのときヨメさんは妊娠していて、9月出産の予定。これは、まちがいなくドタバタする…。
いろいろ考えた結果、「協力隊に応募はします。ただ、家庭や仕事の事情があるので、着任するのは半年ずらして4月からを希望します」という条件付きで応募しました。
そんな無理を言ったにも関わらず、採用してもらったことには今でも感謝しています。結局、ほぼ計画通り34歳でUターンをすることになりました。
自分なりの地域おこし協力隊像
そんなこんなで地域おこし協力隊として採用されたわけですが、自分なりに地域おこし協力隊としての心がけみたいなものを着任前から持っていました。
それは「地域おこし協力隊は失敗するチャンスを与えられた存在である。だから、地域にとってプラスになると思うこと、そして今までにないことにチャレンジをしなければならない。」というものです。
地域おこし協力隊の制度を活用せずに移住する人は、普通、自分で住むところをさがし、仕事をさがし、自分で地域社会との関係性を築いていかなくてはいけません。
一方、地域おこし協力隊は、そうした生活の基盤をつくる部分や、活動する資金について行政からの補助を受けられる恵まれた存在です。
そうした立場にある人が挑戦しないと世の中はよくなっていかない、だから自分も地域おこし協力隊をするからには、ただ平穏に活動期間を過ごすのではなく、必ずチャレンジをしなければいけない、そんな風に考えていたのです。
モヤモヤの1年目
ジオパーク担当というミッション型の協力隊として活動をしてきて、特に最初の1年はほぼ行政の立場で動いていました。
ジオパーク推進室という市の部署に配属され、そこにデスクがあり、平日は毎日出勤、市が作成した事業計画に基づく業務の一端を担いました。デスクは窓口に一番近い席なので、来客があれば用件を伺って取り次ぎますし、課内会議などにも他の職員と同様に出席を求められました。
市の嘱託職員という立場で採用されているので当たり前と言えば当たり前かもしれません。でも、正直ここまで行政の枠の中で活動することになるとは思っていませんでした。
そのため、1年目は「地域おこし協力隊になったけど、こういう活動の仕方でいいのかなぁ」というモヤモヤした感じでした。
任せられた業務は、基本的に前職時代にやっていたようなことと似ており、それは自分にとって「既にやったことがあり、できること」がほとんど。
もともと行政マンになるつもりはなかったので、こんな風に行政の仕事ばかりしていてもしょうがないな、と考えていました。
前に進み始めた2年目
そんなモヤモヤを払しょくしたい、と2年目から始めたのが野山のおさんぽ会でした。
自分がこの地域でこれからも暮らしていくことを考えた時に幼児教育の選択肢の少なさに問題意識を持ち、ここが変われば(20~30年後くらいには)地域が変わると思って始めた取り組みです。
こうして、行政の仕事をこなしつつ、自分独自のプロジェクトをやるという2足のわらじ的な形で協力隊2年目を過ごすことになりました。
おさんぽ会を始めたときは「ようやく自分が目指していた地域おこし協力隊の活動ができそうだ」とすごくスッキリしたのを覚えています。
まもなく折り返し地点ですが、「活動の方向性は間違っていないので、より自分独自のプロジェクトの比重を増やしてどんどんチャレンジを続けていけばいい」というのが今の自分の感覚です。
協力隊を卒業するときに悔いを残さないように、失敗を恐れず突き抜けたチャレンジをやりたいと思います。