かとう家の小ばなし

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本当は、学校で教えてほしかったこと

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先日、マンガ家のおかざき真理さんのインタビューを読みました。

 

 

核心をついたやりとりに考えさせられることが多かったので、書きとめておきたいと思います。

 

やりたいことは「職業」として用意されてない

「大きくなったら、何になりたいの?」

私たちは子どもの頃から、将来なりたいものについて聞かれ続けてきました。

いつ聞かれたか?にもよるけれど、知っている職業や身の回りの人の職業を思い浮かべて、回答することが多いのではないでしょうか。

 

また時代の変化を受けて、ケーキ屋さんがパティシエになったり、花屋さんがフラワーデザイナーになったりしているかもしれないけれど、そのほとんどは、今ある「職業」から選ばれた回答だと思います。

 

そんな子供時代を経て、大人になって思うことは、今でさえ何になったらいいのか分からないということ。

娘に「お母さんって、何しよるん?」と聞かれても、うーん、「いろいろやね。」としか答えることができません。

だって、目指していることに到達するためには、いろいろやってみる必要があるから。今だって、webサイトをつくったり、ネット関連のサポートをしたり、森のようちえんの活動をやっている。

 

コンビニアイス研究家とかみたいに、いいネーミングを思いつくことができればいいのかもしれないけれど、どうやら私にそんな才はない・・・。

 

だから、おかざきさんの以下のお話に激しく頷いてしまいました。

 

自分の本当にやりたいことって仕事の形をしてないじゃないですか。職業としてお金をくれるわけではないことのほうが多い。だったら、色んな所からちょっとずつお金をもらって、総合的に自分のやりたいことのようなものが叶っていけば良いんじゃないかなと思うんです。

 

素人とプロの差ってなんだろうって思った時に、お金を儲けるシステムを自分の中に構築するのがプロだと思うんです。ずっと好きで長く続けたいのであれば、お金に変える、というか、生活に組み込むシステムを作っておいたほうが楽だよと思います。システム化できるまでが難しいとは思うのですが。

 

本当は学校で教えてほしかったこと

自分の本当にやりたいことって職業として存在していないこともあるよって、誰かに教えてほしかった。

大学受験の時も、今ある職業から逆算し、学部を決めて受験した。

あのとき、やりたいことは探し続けていけばいいし、今ある職業じゃなくても、努力すれば職業って作ることができるんだよ、と誰かに教えて欲しかった。

 

人には多面性があるように、これからは1人の人の仕事も多面的になり、1つの職業ではくくることができなくなっていくのかもしれません。

そして今ある職業が、子どもたちが大人になった時にも必ずあるとは限らない。

 

だからこそ、「20年後も必要とされる職業」という視点で将来を考えるのではなく、どう生きたいか?を自分にも問いながら、子育てしていきたいなあと思うのでした。

 

※参考

何になりたいかではなく、どう生きたいか? - かとう家の小ばなし

 

おばあさんが芝刈りに行っても、いいんじゃないか。

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最近、桃太郎の話が大好きな娘。

家では、「こんにちは!おじいさんです。」というモノマネをするのがマイブームなようです。

 

そこで、「おばあさんはどこに行ったん?」と聞くと、「せんたく」と答えました。

なるほど、話をわかってるんだなあと納得してたんですが、ふと、これって小さい頃からジェンダーロール(性別によって社会から期待されたり、自ら表現する役割や行動様式)を無意識に刷り込んでるんじゃないかと感じてしまいました。

 

いろんな役割分担があっていい

たぶん「桃太郎」の場合、おじいさんとおばあさんは、たまたま今日だけ「芝刈り」や「洗濯」に行ったわけではなく、おそらくそのように役割分担をしていた可能性が高いですよね。

 

でもこれからの時代を考えると、おばあさんが芝刈りへ行き、おじいさんが洗濯へ行ってもいいし、それぞれの予定を考えながらローテンションやシフトを組んだりしてもいいと思うんですよ。

 

それぞれが芝刈りも洗濯も両方できる方がいい。 

 

あ〜、今日はおばあさんの当番やったから、おばあさんが洗濯に行ったんやねー。

 

そんな解釈もスタンダードになるとおもしろいなあ、と密かに考えています。

 

こうじゃなきゃいけない、というものはない

もう一つ。これまでって、大きいものが「善」とされる風潮が強かったと思うんですよ。

大企業に入社すれば安泰とか、起業して上場して、会社を大きくしていくことがすごい!とか。(実際、本当にすごいと思う。)

 

じゃあ、大きくしなきゃだめなのかというと、必ずしもそんなことはない。

 

他にも、雇用を生み出している友人たちの活動をみると、その決断と覚悟に、いつもすごいなあと感じてしまったりする。

退路を断っての決断なんて私にはできないし、いつもけもの道くらいの逃げ道はこっそり用意しておきたい。

あぁ、私には覚悟が足りないなあ、こんなんでいいのかなあと思うときがあります。

 

でも、会社を大きくしなきゃだめとか、雇用しなきゃだめとか、退路断たないとだめなことなんか一切ないんですよね。ネットや雑誌からは、そんなすごい人たちの情報がざざーとやってくるから、知らないうちに、そうするのがすごくて”善”なんじゃないかと思ってしまっていました。

でも人それぞれで、まずは小さく始めて、そのまま小さい規模でもいい。自分のしっくりくるやり方でいい。

 

基本的には、なんでこれってこうなってんだっけ?、本当にそう?と、世の中の出来事をいちいち考えながら生きているんだけど、知らないうちに「こうするのが正しい」みたいな流れに飲み込まれていることもあるなあと振り返りました。

 

まずは家族が健やかに暮らしていけることが大切。

そこから活動を続けていける方法を考えよう。

 

と、子どもとのやりとりから、いつもいろんな気づきをもらっています。

 

やりたいことが変わるのは、悪いことなのだろうか?

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社会人になってから、2度転職し、生きものなどの調査研究を行う研究職からwebやPRの仕事へとがらりと職種を変えました。

 

研究員として8年くらいもやもや葛藤しながら仕事を続け、できたこと、できなかったこと、このままではできそうにないことなどに向き合い、別の方向に舵を切りました。

 

その大きな理由は、この方向からでは自分が登りたい山には登ることができそうにないと感じたからです。

1つの山を登るのにもいくつかルートがあるように、目標にたどり着くためにもいくつかのルートがあります。

 

ただ、実社会で登る山は、ゴールまで道が続いているとは限らないし、そもそものルートすら開拓する必要があることも稀ではありません。そして、時には自分だけの山(課題など)を見つけることも必要になってきます。

 

やりたいことが変わるのは悪いことなのか?

「石の上にも3年」ということわざがあるように、一般的には、やりたいことがあれこれ変わるのはあまりよろしくない、とされる風潮があります。でも、やりたいことが変わるのは本当に悪いことなのでしょうか?

 

個人的には、悪いことだとは考えていません。

なぜなら、本気でやりたいことに、取り組んでいると目標にたどり着くために、いろいろやってみる必要があるからです。むしろ、可能性のあることは片っ端から取り組んでみる必要性すらある。

ビジネスの世界では、PDCA(Plan:計画→Do:実行→Check:評価→Act:改善)を高速で回していかなければなりません。

 

変わっている部分は何か?

何より大切なのは、目的や目標が変わっているのか?手段や方法が変わっているのかを意識することだと思います。

目的や目標がころころ変わっていると、いつまでたっても目的や目標を達成できない。

でも、手段や方法は、目的や目標を達成するためにころころ変えていく段階があります。

私自身、行かないつもりだった大学院に進学したり、就職したら3年で地元に戻ると言ってたのに戻らなかったりしました。その都度、親に申し訳なく感じていたのですが、今ならあの時の想いをていねいに伝えられるなあと振り返っています。

 

これから子育てという長い道のりを歩んでいきますが、「やりたい!」と表面化することだけでなく、気持ちの根っこを観察しながら応援していきたいと思います。

これからは、楽しく身銭を切っていくことが大切だと思う

f:id:chibo1217:20171004165622j:plain衆院選が行われることになり、幼児教育の無償化が注目されていますが、みなさんどんな考えをお持ちでしょうか?

 

私は、何かを学ぶときには基本的に、お金を払うべきだという意見をもっています。

( 幼児教育の無償化については、こちらに完全同意。幼児教育「無償化」よりも必要なもの(駒崎弘樹) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

その理由は、身銭をきらないと自分ごとにならないからです。

 

例えば、会費が5,000円の勉強会とただの勉強会があったら、どちらの方が集中して学ぼうとするでしょうか?そして、どちらの方がより本気の人が集まるでしょうか?

おそらく5,000円の勉強会だと思います。

自分で身銭を切って、自分ごとにならないと、次につなげようという強いインセンティブが働きにくい。

 

また、自分たちのお金で運営することは、主催者側にとってもメリットがあります。参加費を設定して、参加者集めに奔走しなければなりませんが、その動きこそが地域づくりにもつながるからです。

※参考: 講師には、10万円くらい謝礼を払おうよ : 井上貴至の「地域づくりは楽しい」

 

自身の経験を振り返ってみても、以前、kindleUnlimitedという月額980円で読み放題というAmazonのサービスに入っていましたが、辞めました。登録された雑誌と書籍が読み放題だったのですが、特に書籍に関しては、無料だからいつか読めばいいやと思ったり、この本から何かを学びとろうという集中力が落ちてしまったからです。

 

自分にとっては、本当に読みたい書籍はお金を払って買おう。

そう思って退会し、雑誌は流し読みでもいいから別の読み放題サービス(楽天マガジン)に切り替えました。

 

また、最近オンラインの勉強会に参加しているのですが、受講費用も安くはないため、かなり本気度の高い人が集まっていて、熱量がすごいです。

 

タダで何かの機会を提供すると、「お金を払ってでも学びたい人」と「タダだから来ました」という人が一緒に学ぶことになる。どちらがより良い機会を提供できるかは明らかでしょう。 

 

補助金からスタートする事業が、当事者を育てにくい構造とも、似ているのかもしれません。 

 

もちろん、教育格差を解消し、誰でも望む教育を受けられる機会の均等化は必要です。そのための手段が無償化することだけではないはず。無償化にすることでサービス利用希望者が急増し、本当に必要な人にサービスを届けられなくなったら本末転倒です。

奨学金の無利子化や、ある程度の条件をクリアすれば返済免除など、身銭を切ることをサポートする方法も、もっと検討するべきだと思うんです。

 

おわりに

というわけで、なんでもタダがいいわけではないヨ!ってことが言いたかったんです。

そしてお金が価値の交換を目的に存在しているならば、本当にタダのものって無くて、どこかのだれかがお金を出しているわけです。(無料の講座には補助金や税金が使われているように。)

 

サービスを受ける側としても、提供する側としても本来の目標や目的を考えて、「身銭を切る」とい感覚を忘れずに取り組んでいきたいと改めて思いました。

 

そして何より、お金を払ってでも参加したいと思ってもらう価値をつくり続けていくのって、本当に難しいなあ(泣)とこれからのことに想いを馳せる今日この頃です。

でも、地方で自分たちの仕事をつくって生きていくためには、向き合っていかねばならないテーマだなと。

 

がんばりまーす。